弦さん祥月命日・・・・・

    令和4年5月20日(金)
労さんの長男・竹中 弦さんの祥月命日に、お世話になっておりますY.T様がお墓参りをして下さり、メールでお写真をお送り下さいました。
5月19日、20日と一日違いの親子の祥月命日になりました。
💐お友達が今日、甲府脳外科で9時から手術、正午少し前に無事に終わり本当に安心致しました。💐 8B021088-25C4-42E0-94BF-0453BA2758AF.jpeg6C5269F8-736B-423C-BAD3-2D02EEF4F413.jpeg記念館内にパーティーションを設置致しました。87B89F8F-F46B-461D-9CE4-01AD4BFA620D.jpeg
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元祖ルポライター・竹中労祥月命日・・・・・・

令和4年5月19日(木) 竹中労祥月命日
竹中労祥月命日の今朝ご予約をいただきました、労さんファンの川崎のM.S様がご来館下さいました。
数十年前に4年間、山梨にお仕事の関係でお住まいでしたが、"その時には記念館はまだありませんでした。"とお話し下さいました。
"道の手帖・「竹中労」(河出書房)をまた読み返してます"と、今日もお持ちになられ、"記念館にやっと来れました。"とおっしゃっておられました。労さんの嬉しい供養になりました。
FB9E7651-6CD2-4365-AD82-EF697EE5EE4A.jpeg「道の手帖・竹中労」
DF3271E1-652A-4CF7-BDCB-D18D149063C3.jpeg自宅から記念館への通路にジャーマンアイリスが綺麗に咲きました。
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雛鳥との悲しいお別れを・・・・・

      令和4年5月16日(月)
昨日、辛く悲しい雛鳥とのお別れがありました。
刺激しない様と数日我慢しておりましたが、気になりポストのドアを開けました。
雛鳥の姿がなく、もう巣立ってしまったのかと一瞬思いました。下段にお腹を膨らませている蛇を見つけ、飲み込まれてしまった事を知り、ただただ取り乱してしまいました。
蛇は、重たいのか動作が鈍く直ぐに主宰が取り押さえてくれました。
親鳥は、何も知らずに餌をくわえ電線にとまり様子を伺っておりました。
その姿に、親鳥に向かって号泣しながら、"もういないんだよ。"と何度もなんども叫びました。
まだ餌を運んでくる位ですので、日にちや時間はあまり経っていない様に思います。
カラスが気になっておりましたが、まさか蛇が、、、思ってもおりませんでした。
お空を飛ぶ事もなく命を奪われてしまい、守ってあげられずに本当に可哀想でつらくてなりません。今も涙が溢れてとまりません。 
巣立ちを楽しみにして下さいましたお友達の皆様、ごめんなさい。7F08A594-1470-4130-9F00-F5D4A618C2C4.jpeg 飾りのポストは、二段になっており、上段にひな鳥が、下段は今まで空っぽでした。 8FE456B7-317A-44EA-9F81-D3A4919730DA.jpeg400D50BB-B3A7-4786-ADA9-93DFBCD04756.jpeg
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沖縄本土復帰50年・山梨日日新聞の記事・・・・・

令和4年5月15日(日)
今日の山梨日日新聞に、沖縄本土復帰50年に際して、山梨県で沖縄と深い関わりがある、"竹中 労"について大きく取り上げて下さいました。
5月2日に編集局 報道部部長・前島文彦様が記念館においで下さりご取材下さいました。
山梨日日新聞より抜粋させていただきました。82DBFA92-6074-4F00-9151-12A763E75CC4.jpeg
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「沖縄本土復帰50年に寄せて」・・・・・

         令和4年5月15日    
「沖縄本土復帰50年に寄せて」金子 望 (記念館主宰)
今日、5月15日で「沖縄本土復帰50年」を迎える。
振り返ってみると、敗戦から76年、1951年「日米安全安保条約」締結。
1960年「日米安保改訂」、1972年「沖縄本土復帰」、そして1975年「沖縄海洋博」開催と続く。
復帰50年にあたって、ふと思い返されるのは、沖縄の文化、芸術等に多大な貢献をした「元祖ルポライター」こと”竹中労”の事。
1969年10月31日、初めて沖縄の土を踏み、島うたと三線の名手・嘉手苅林昌との運命的な出会いをする。これ以降、死去直前まで30回超の来沖となる訳だが、、、。
当初の来沖の目的は三つ。
1.日米のフォーク歌手を集めた「インターナショナルフォークキャラバン」開催の下見、(後の琉球フェスティバル」として実現)

2.沖縄を舞台とした「ミュージカル映画」の製作のための現地調査。
(後の2〜3本の映画製作実現)

3.日本禁歌集(沖縄編)の制作準備。(その年の暮れに「日本禁歌集三 沖縄春歌集・海のチンボーラ」で実現。)実に35枚に及ぶLPレコードをプロデュース)

こうして労の島うた巡る旅が始まる訳だが、その後の90年代の沖縄音楽へのヒントも残した。例えば、喜納昌𠮷とチャンプルーズ、ネーネーズ、りんけんバンド、ビギン等は、労が沖縄の種をまいてきた成果が実ったといわれている。その証として「なんた浜」に労の石碑が残されている。

沖縄の文化、芸術等に多大な貢献をした労は”沖縄、ニッポンではない。”復帰前夜にそう喝破した労、その言葉の真実味は、米軍基地問題、米軍犯罪、高い失業率と沖縄が注目を集める今日、ますます重みを増している。
また、復帰を前にアタフタする政治家、文化人達を辛辣な批判を加える。

労が生きていたら、果たして何を言うか、聞きたいものである。
最後に労の「人は無力だから群れるのではない。あべこべに、群れるから無力なのだ。」(ルポライター事始め)を皆様に送りたい。
詳細をお聞きになりたい方は、当館まで足をお運びください。E683B492-98CA-41B2-BA4D-BAE2EECD4F19.jpegジャケットの絵は、すべて竹中英太郎が手掛けました。4D61C7B1-A5DE-4A76-BE63-B327947C1347.jpeg6FBCC12D-D337-4916-8384-E9A06405AF74.jpeg
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