沖縄本土復帰50年・山梨日日新聞の記事・・・・・

令和4年5月15日(日)
今日の山梨日日新聞に、沖縄本土復帰50年に際して、山梨県で沖縄と深い関わりがある、"竹中 労"について大きく取り上げて下さいました。
5月2日に編集局 報道部部長・前島文彦様が記念館においで下さりご取材下さいました。
山梨日日新聞より抜粋させていただきました。82DBFA92-6074-4F00-9151-12A763E75CC4.jpeg
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「沖縄本土復帰50年に寄せて」・・・・・

         令和4年5月15日    
「沖縄本土復帰50年に寄せて」金子 望 (記念館主宰)
今日、5月15日で「沖縄本土復帰50年」を迎える。
振り返ってみると、敗戦から76年、1951年「日米安全安保条約」締結。
1960年「日米安保改訂」、1972年「沖縄本土復帰」、そして1975年「沖縄海洋博」開催と続く。
復帰50年にあたって、ふと思い返されるのは、沖縄の文化、芸術等に多大な貢献をした「元祖ルポライター」こと”竹中労”の事。
1969年10月31日、初めて沖縄の土を踏み、島うたと三線の名手・嘉手苅林昌との運命的な出会いをする。これ以降、死去直前まで30回超の来沖となる訳だが、、、。
当初の来沖の目的は三つ。
1.日米のフォーク歌手を集めた「インターナショナルフォークキャラバン」開催の下見、(後の琉球フェスティバル」として実現)

2.沖縄を舞台とした「ミュージカル映画」の製作のための現地調査。
(後の2〜3本の映画製作実現)

3.日本禁歌集(沖縄編)の制作準備。(その年の暮れに「日本禁歌集三 沖縄春歌集・海のチンボーラ」で実現。)実に35枚に及ぶLPレコードをプロデュース)

こうして労の島うた巡る旅が始まる訳だが、その後の90年代の沖縄音楽へのヒントも残した。例えば、喜納昌𠮷とチャンプルーズ、ネーネーズ、りんけんバンド、ビギン等は、労が沖縄の種をまいてきた成果が実ったといわれている。その証として「なんた浜」に労の石碑が残されている。

沖縄の文化、芸術等に多大な貢献をした労は”沖縄、ニッポンではない。”復帰前夜にそう喝破した労、その言葉の真実味は、米軍基地問題、米軍犯罪、高い失業率と沖縄が注目を集める今日、ますます重みを増している。
また、復帰を前にアタフタする政治家、文化人達を辛辣な批判を加える。

労が生きていたら、果たして何を言うか、聞きたいものである。
最後に労の「人は無力だから群れるのではない。あべこべに、群れるから無力なのだ。」(ルポライター事始め)を皆様に送りたい。
詳細をお聞きになりたい方は、当館まで足をお運びください。E683B492-98CA-41B2-BA4D-BAE2EECD4F19.jpegジャケットの絵は、すべて竹中英太郎が手掛けました。4D61C7B1-A5DE-4A76-BE63-B327947C1347.jpeg6FBCC12D-D337-4916-8384-E9A06405AF74.jpeg
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