陰獣の静子・・・
福島県のY.H様が、父の事が書いてあります(「愛書家手帳」昭和51年10月20日発行)の情報をお送りくださいました。

筆者(長瀬 宝様)がかつて目にされた江戸川乱歩・著「陰獣」の中の挿絵に惹かれ、その思いを書かれておりました。
筆者と江戸川乱歩氏が会われた際、乱歩氏から「満州へ行って竹中英太郎は死んだよ」とお聞きになられた事もつづられております。
昭和33年10月号・「宝石」に掲載の座談会(出席者・江戸川乱歩・三島由紀夫芥川比呂志・杉村春子・松浦竹夫・山村正夫の6名)の中でも乱歩氏は、杉村春子の問いに、父のことを「竹中英太郎は、満州に渡ったと聞いているがその後の消息はわかりません」と述べております。
父は、挿絵画家を辞めたあと一切皆様とお会いする事はしなかったと聞いております。ただし、落ちぶれた生活をしていたわけでもなく、弱者救済のため一生懸命働いておりました。昭和42年からは、兄(竹中 労)のために色彩画も描いておりました。
もし、父が戦争も終わり平和な時代を迎え、数十年経って江戸川乱歩、横溝正史氏をはじめ挿絵を手がけた作家さん方や、岩田専太郎氏達に再びめぐり会っておりましたら・・・と考える事がございます。
絵筆を折った時の、強い強い思いが父をそうさせたのでしょうか。
本当に意思の強い父であったと思います。
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筆者(長瀬 宝様)がかつて目にされた江戸川乱歩・著「陰獣」の中の挿絵に惹かれ、その思いを書かれておりました。
筆者と江戸川乱歩氏が会われた際、乱歩氏から「満州へ行って竹中英太郎は死んだよ」とお聞きになられた事もつづられております。
昭和33年10月号・「宝石」に掲載の座談会(出席者・江戸川乱歩・三島由紀夫芥川比呂志・杉村春子・松浦竹夫・山村正夫の6名)の中でも乱歩氏は、杉村春子の問いに、父のことを「竹中英太郎は、満州に渡ったと聞いているがその後の消息はわかりません」と述べております。
父は、挿絵画家を辞めたあと一切皆様とお会いする事はしなかったと聞いております。ただし、落ちぶれた生活をしていたわけでもなく、弱者救済のため一生懸命働いておりました。昭和42年からは、兄(竹中 労)のために色彩画も描いておりました。
もし、父が戦争も終わり平和な時代を迎え、数十年経って江戸川乱歩、横溝正史氏をはじめ挿絵を手がけた作家さん方や、岩田専太郎氏達に再びめぐり会っておりましたら・・・と考える事がございます。
絵筆を折った時の、強い強い思いが父をそうさせたのでしょうか。
本当に意思の強い父であったと思います。

コメント
タイムスリップをして、戦前・戦中・戦後に
戻れることが可能であれば、<竹中英太郎氏>を徹底解明してドキュメンタリーを作ってみたい!!なんて思ってしまいました。
私等、余りにも身近におられたので存在の大きさに、今だに信じ難い思いです。
昭和、平成の時代には、これらの偉人は出てきそうにありませんね。
座談会に名を連ねる事はなかったと思いますが、著名な方々のお話の中に、父の名前が出る事がすごいと思います。
語り継いでいく事、それしか出来ません。
いつまでも忘れられない人であって欲しいから・・・