父の山梨日日新聞記者時代を・・・・・・
昨日の黄砂もなく、今日は甲斐の山々がはっきり綺麗に見えました。
午後から、東京にお住まいのご家族(お母様、お嬢様お二人)がご来館下さいました。
タクシーの運転手さんに、「記念館は知りませんと言われてしまいました」と笑っておっしゃって下さいましたが、場所がわかり難く申し訳なく思います。
お母様のご実家が甲府で、94歳になられますお母様に会いにお出でになられたそうです。
お嬢様は、労さんの本をお読み下さり、特に「鞍馬天狗のおじさんは」は、とても面白いとおっしゃっておられました。
亡くなられましたお父様が大学の教授をなさっておられました関係で、新青年や労さんの本等、沢山読まれておいででした。
とても仲の良い素敵なご家族でした。ご来甲の際にはお立ち寄り下さるそうです。
父の山梨日日新聞時代をご存知の方(I様)がご来館下さいました。

↑ 記者時代に父がつけておりました懐かしい社章です。
志を抱き、九州から上京した父、甲府から上京されたI様でしたが、二人とも志半ばで甲府に戻り、新聞社勤務(I様は1922年のお生まれですので、父とは歳は離れておりますが)、たまたま他社の記者仲間の飲み会で一緒になり、I様は、父が新青年など著名な挿絵画家である事をご存知だったため、「何で甲府になんかいるんですか、東京に戻って絵を描かれたらどうですかと」と父に言われたそうです。その言葉に、父は「何でそんな事を言うのだ」と言って泣いたそうです。
絵筆を折ってから16年目に言われた言葉に父が泣いた、、、、、初めて聞きました。
父の涙は何を思っての涙だったのでしょうか?
父の挿絵画家としての活躍をご存知だった方が、あの当時山梨にいらっしゃった事にも、あらためて感動致しました。
ぜひ、I様にはいつまでもお元気で、また色々なお話をお聞かせ頂きたいと思います。
:::::
主宰は、亡き友人とお別れの後、初七日の席にお招き頂き、皆様と共に偲ばせて頂きました。
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午後から、東京にお住まいのご家族(お母様、お嬢様お二人)がご来館下さいました。
タクシーの運転手さんに、「記念館は知りませんと言われてしまいました」と笑っておっしゃって下さいましたが、場所がわかり難く申し訳なく思います。
お母様のご実家が甲府で、94歳になられますお母様に会いにお出でになられたそうです。
お嬢様は、労さんの本をお読み下さり、特に「鞍馬天狗のおじさんは」は、とても面白いとおっしゃっておられました。
亡くなられましたお父様が大学の教授をなさっておられました関係で、新青年や労さんの本等、沢山読まれておいででした。
とても仲の良い素敵なご家族でした。ご来甲の際にはお立ち寄り下さるそうです。
父の山梨日日新聞時代をご存知の方(I様)がご来館下さいました。

↑ 記者時代に父がつけておりました懐かしい社章です。
志を抱き、九州から上京した父、甲府から上京されたI様でしたが、二人とも志半ばで甲府に戻り、新聞社勤務(I様は1922年のお生まれですので、父とは歳は離れておりますが)、たまたま他社の記者仲間の飲み会で一緒になり、I様は、父が新青年など著名な挿絵画家である事をご存知だったため、「何で甲府になんかいるんですか、東京に戻って絵を描かれたらどうですかと」と父に言われたそうです。その言葉に、父は「何でそんな事を言うのだ」と言って泣いたそうです。
絵筆を折ってから16年目に言われた言葉に父が泣いた、、、、、初めて聞きました。
父の涙は何を思っての涙だったのでしょうか?
父の挿絵画家としての活躍をご存知だった方が、あの当時山梨にいらっしゃった事にも、あらためて感動致しました。
ぜひ、I様にはいつまでもお元気で、また色々なお話をお聞かせ頂きたいと思います。
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主宰は、亡き友人とお別れの後、初七日の席にお招き頂き、皆様と共に偲ばせて頂きました。

日記 | comments (6) | -
コメント
I様は当時をご存じの貴重な方ですので、是非お元気で長生きをして頂き、折に触れ館長に昔話(竹中英太郎氏)をお聞かせ頂きたいと切に願います。
I様とは初めてお目にかかりました。
I様とお話させていただく間、ずっとどきどきしておりました。
権力には決して屈せず立ち向かった父に、敵も多かったとうかがいました。
でも、世の中すべての人達が平等でなくてはならない、そんな父の信条があったからこその父の姿、父の思いを今はよくわかります。
I様にお目にかかる事が出来、本当によかったと思います。
何か、衝撃のようなものを感じました。
後半の絵は、時の流れが関係ない気がします。時を越えると言う事です。
まだまだ、理解していませんが、なぜ不思議な絵を描くのか・・・・私なりにそうか・・・なんて思いました。
志が高いから、ものの奥深くを考え、想いをめぐらすからではないかと思いました。
画家の域には収まらなかったのではないかとも思いました。
およそ30年くらい前にお亡くなりになりましたが、その頃から私は県外におりましたので、私の中では空白な時間です。でも竹中労様がテレビに出ていたのは記憶しています。
まだ話しきれませんが・・・
又、お話聞かせてください。
画集ご覧頂けて嬉しいです。
私には絵心がないため、父の絵をなかなか理解する事ができません。
ただ、父が亡くなる数年前に、ある雑誌のインタビューを受けた際、父は「描きたい絵がまだ一枚も描けていない」と語っております。
昭和初期の作品は、それぞれ作品の内容にそって描いたもの、昭和後期は息子の作品の為に描いたもの、父はどんな絵を描きたかったのでしょう。父の「自分の為の作品」を見てみたかったと思います。
昨日、記念館にお出で下さいましたI様は、英太郎先生はきっとずっと絵を描き続けたかったのではないでしょうかとおっしゃっておられました。
父が、絵筆を折った事につきましては、いさぎよいけじめのつけ方としか考えておりませんでした。
父が流した涙の意味との関係は?
私にはよくわかりません。
絵(きゃんぱす)は自分自身を表現できる唯一の鏡だと思いますので、I様の仰る通り生涯描きたかったのでしょうね。
「戒厳令の夜」の少女像に、物凄い気迫が感じられるのはそのせいなのでしょうか?
余りにも謎が多いため、館長同様、私にもよくわかりません。
おはようございます。
Kako様が感じられましたように、I様も「戒厳令の夜」の少女像には惹かれるし、物凄い絵だとおっしゃっておられました。
ある方からも、「戒厳令の夜」の4点の作品は、描いた人の思い、思い入れが強すぎる絵とお聞きした事があります。
いつの日か、父にめぐり会えた時聞いてみたいと思います。父に尋ねたい事がいっぱいです。